能成寺碑 とは
正しくは「定林山能成寺之碑」という。天保14年(1843)10月建立。甲斐の三筆の一人、一宮浅間神社副祝・伴希真(古屋蜂城)が篆額を書きその下に徽典館(山梨大学の前身)の学頭・友野かん(霞舟)が撰文をしたものを甲府勤番支配・浅野長祚が謹書した。大きさは畳一丈ほど。近世の名碑である。因みに同メンバーによって二ヵ月後には「重新徽典館碑」が建てられた。現在山梨大学の構内に立っている。


大野九郎兵衛の墓 とは
赤穂義士の討ち入りで有名な播州赤穂藩の淺野家家老。討ち入りには参加しなかったので汚名を着せられているが、実はもし大石等が本懐を遂げられなかった場合の備えとして軍資金を確保し第二陣を率いるべく韜晦していたのではないかとも云われる。墓石の裏面に狂歌として次のような辞世の歌が彫られている。「死する期は白黒とても見えずとも彼の岸にては打たむ渡り手」討ち入りと結びつけると意味深長な歌ではある。

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